2022年5月15日
社民党幹事長 服部 良一
1、沖縄の本土復帰から50年を迎える。第二次世界大戦末期、沖縄は本土防衛のための「捨て石」とされ、県民の4人に1人が犠牲となる悲惨な戦禍にさらされた。戦後も、1952年4月に発効されたサンフランシスコ講和条約によって日本から切り離され、米軍占領下に残された。米軍占領下の27年間、「銃剣とブルドーザー」による土地の強制接収で米軍基地は拡大され、米軍人・軍属による事件・事故による被害も日常であった。復帰によって「米国の横暴」から脱却できると考えた沖縄の人々は、平和憲法の下の日本への「祖国復帰運動」を繰り広げ、1972年5月15日に日本に復帰するに至ったのである。
2、米国との復帰交渉で日本政府は「核抜き、本土並み」の原則を掲げ、沖縄の人々は復帰によって「本土並みの」の人権保障、「本土並み」の生活が出来ると信じた。しかし50年を経て、沖縄は「本土並み」になっただろうか。復帰の年の1人当たり県民所得は全国平均の59・5%だった。2018年度には74・8%に縮まったものの、都道府県ランキングで沖縄の県民所得はほぼ毎年最下位である。
3、沖縄県内の米軍専用施設の面積は復帰時に2万7893ヘクタールだったが、2020年までに1万8484ヘクタールに縮小した。しかし集中の度合いでいえば、全国の米軍専用施設面積に占める沖縄の割合は、復帰の年の58・7%が、20年には70・3%にむしろ上昇している。本土より米軍基地の削減スピードが遅いため、集中度がむしろ増しているのである。
4、米軍の横暴な振る舞いによる被害も変わらない。軍用機やヘリの事故や落下物の危険にさらされ、昨年は県の反対を押し切って発がん性が疑われる有機フッ素化合物PFOSが下水に放出された。米軍人・軍属による暴力や性被害も相変わらずだ。米軍優遇の根拠となっている日米地位協定の見直しもにもふれようとしない。
5、このような中、日本政府は米軍普天間飛行場の名護市辺野古への移設を強引に進めている。1995年の少女暴行事件後の県民の怒りに直面して、日本政府は「SACO(沖縄に関する特別行動委員会)」を設置し、96年4月に普天間飛行場の「5年ないし7年以内の全面返還」を表明して事態の収集をはかった。しかし姑息にもこの「返還」は代替施設への移設が前提とされたおり、25年を経た今も実現していない。「返還」の代償として辺野古の海を埋め立てた巨大基地を建設・提供するのではまったく本末転倒だ。ただちに計画を撤回するべきだ。
6、さらに、米軍基地の整理・縮小を上回るスピードで、自衛隊基地新設・増強が進んでいる。この間、日本政府は尖閣問題等で危機を煽りながら、鹿児島県の奄美大島、馬毛島も含め、沖縄県の宮古島、石垣島などの南西諸島への部隊の配備を進め、米軍と一体となった戦争準備を進めている。もし「台湾有事」となれば、沖縄の米軍基地が最前線の出撃拠点となることは明らかであり、南西諸島が戦場になるおそれは現実のものとなっている。
7、復帰直前の1971年11月、琉球政府の屋良朝苗主席(当時)は、政府に「復帰措置に関する建議書(屋良建議書)」を提出しようとした。沖縄の歴史について「余りにも、国家権力や基地権力の犠牲となり、手段となって利用され過ぎた」と指摘し、自己決定権の確立を求めた。しかし国会は建議書を受け取ることすらないまま沖縄返還協定を強行採決した。
8、今回、沖縄県は復帰50年にあわせ「平和で豊かな沖縄の実現に向けた新たな建議書(新建議書)」を決定し、岸田文雄首相に手渡した。建議書は沖縄に負担を押し付ける基地問題を「構造的、差別的」とし、日本政府に早期解決を求めた。2013年1月に保革の対立を超えた「オール沖縄」勢力がまとめた「建白書」の提案も重い。日米両政府はこうした訴えを真摯に受け止めるべきだ。沖縄を再び戦場とすることがあってはならない。
復帰50年にあたり、強く訴えたい。